女がいた。
可笑しな女がいた。
“力”が強すぎて、浮き世離れした女だった。
なのに必死に、人間でいようとしがみついていた。
人間の輪の中に交わろうとした。
まるでわざと自分自信を責めるように。
名前は沙羅といった。
「・・・ねぇ。ねぇ、あなたは、“何”? “聞こえ”ないわ。あなた
の“声”。」
当たり前だ。“聞かせ”ないようにしてるんだ。
「違うの。そうじゃなくて。どうして付いてくるの?私に何か用事でも?」
そんなこと知るか。
俺だっていい迷惑だ。
ふざけるな。
「ふざけるなって、何なのよ。」
たおやかな腰に手を当てて、両目の黒糖の結晶を、怒ったように、困ったように煌めかせる。
「どうして私を助けてくれるの? どうして私の後を追うの。
何が目的? わざわざ下界の世界に・・・人間の世界にまで降りてきて。…ねぇ、天狗様。」
そんなこと知るか。
俺もウンザリしているんだ。
っというか、お前は人間に向いてないんだ。
その強すぎる“力”。人間の災いにしかならない。
だから留まる里もなく、お前はいつもさ迷っている。
・・・いい加減、“こちら”の世界へ来い。
その時初めて女の顔が強張った。
氷が音をたてて、砕けたようだった。
「・・・行かないわ。」
行けない、とでも言うように。
俺には、
女が疲れているように見えた。
女は身も心もすり減らし、ただただ、疲れているように思えた。
女がその“力”で人間を救っても、人間にはそれも災厄にしか思えない。
ボロボロになってもまた人を救おうとする姿に、俺は崩れて消える命を見た。
だから、もういい。
もう、“やめろ”。
「いいの。いい。助けてくれなくて、いいの。やめて。私を放っておいて。」
知らない。
お前の意志なんて聞いてない。
助けてもいない。
お前は人間でいるのをやめろ。
分からないのか。お前の力は更に強くなっているのに。
お前が人間でなくなったなら、その時は俺も消えてやろう。
「いや。お願い。どうしてなの? どうして?
どうして私を助けるの?どうしてそんな事を?」
言えない。
お前には言えない。
お前には関係ない。
「私は助けてなんて言ってない。・・・助けてほしいとも。
私は、一人で生きてゆく。」
お前の心に刺さっている、その人影は何だ。
「・・・私が、殺めてしまった、男の・・・。」
忘れろ。
楽になれ。
「・・・できないわ。」
ふざけるな。
お前の意志なんて知らない。
お前なんて嫌いだ。
人間なんて。
人間の女なんて。
「邪記。」
女が、俺の名前を呼ぶ。
「邪記。」
なんだ。
「・・・邪記。」
うるさい。
ちゃんと聞こえている。
そう何度も呼ぶな。
「ありがとう。」
・・・は?
「ありがとう。・・・私を、今まで助けてくれて。
・・・結局どうして私を助けてくれるのか、教えてくれなかったけど。まぁ、いいわ。」
・・・・・・。
「でもそれも、もう終わり。・・・さよなら。さようなら、邪記。」
・・・なんだと?
「ごめんね。ありがとう。さようなら。」
ふざけるな。
さよならだと?
・・・沙羅。
・・・・・・沙羅!!
空を仰いだ邪記の視界は、跳び交う幾千の胡蝶で覆われていた。
「・・・沙羅!!」
邪記は駆けた。
「戻ってこい、沙羅!!」
そう、何度も口にしたその言葉を、今度もまた繰り返す。
「帰ってこい。帰ってこい、沙羅!!」
かつてこの身の血肉となった、黒天狗は言った。
俺の力を使い、沙羅を追いかけろと。
人を高見から観察するような、目つきの悪いツルの精は言った。
お前はその女に焦がれているのだと。
・・・・・・ふざけるな。
俺は人間なんて嫌いだ。
自由のない、人間なんて。
・・・それでも。
「それでもお前だけは・・・助けてやる。」
何度も、何度でも言おう。
お前が分かるまで、何度でも。
「お前の居場所は、ここだ。」
邪記の伸ばした手の先で、眩い翼をした胡蝶が一つ、ひらりと空を駆けていった。
END