ふぅ、と椅子に腰をかけた姫は、戸棚から日記を取り出した。
壁にかけられた時計に目を向ける。半刻ほどで、午後3時になる。
お茶の用意にリビングに立つには少し早かった。
日記を書くにはまだ一日を終えていないが、夜には仕事がある。
書けるのは今、この時以外にはないだろう。
姫が手にしているその古ぼけた日記は、十年間の年月を記録できる。
表紙は色あせ、ページの何枚かは黄色ばんでいた。
姫は柔らかな繊手でこの日記を一撫ですると、それ開いた。
これを使い始めて、九年目。
・・・そうだ。もう、あれから九年になる。
「・・・こんなにも、かかってしまうとは・・・」
思ってみなかったけれど。
何の気なしに・・・いや、どこか意図を持って、姫は昔にさかのぼるべくページをめくっていた。
・・・そう。
最初は弥星だった。
元は国家のスパイとして働いていた彼を仲間に引き入れ、
ある屋敷に捕らえられていた双子・・・茄月、葉月を助けて味方につけた。
裏の世界で特に名の通る殺し屋の二人組、神無と玖音との接触に成功し、
条件契約を交わして協力を得た。
それぞれと取り交わした条件の期限は、とうの昔に切れている。
それでも、彼らは自分の意志でこの館に留まり、絶えず姫にその力を貸していた。
・・・そして。
姫はページをめくる手を止めた。
その美しい2つの瞳を細める。
・・・そして、庚と出会った。
ある警察隊から、主要な組織の警備へと抜擢されるまでの、
その僅かな隙間を縫って、姫は彼に会いにいき、彼をスカウトした。
この先、貴方に約束されるはずの金額の、倍を出すと姫は庚に告げた。
・・・それぐらいの財産は、姫の手にあった。
しかし、庚はあの・・・少し困ったような、穏やかな笑顔を見せて姫に言ったのだ。
「・・・僕は別に、お金がほしいのではありません。」
『けれど貴方が僕の力を求めてくれるなら、
貴方の力になりましょう。』
・・・姫は目を閉じた。
「・・・もう少し。」
そう、もう少しで。
この生活は、終わる。
姫はゆるりと静かに目を開き、もう一度その日記を撫でた。
・・・来年。
来年のこの日に、多分自分はこれを開いてはいない。
来年と言わず、この年末中にでも、この日々は終わるだろう。
夢のように儚く。
ふと目を伏せた姫の顔に、影ができた。
・・・楽しい。
楽しかった、これまでの日々。
知らなかった。
思いもよらなかった。
本当はこんな楽しさなど・・・望んではいなかったのに。
姫はどこか諦めたように微笑んだ。
「・・・存外、名残惜しくなるもの、ですね。」
暖かな笑い声が響くこの家を。
心からの笑顔を思い出させてくれた、彼らを。
しかしあるページをめくったとき、姫の瞳が突然、憤怒の炎に燃えた。
激しい憎悪と深い悲しみ、そしてほんの少しの、罪悪感とが
とりどりに踊るように瞳の奥に現れ、やがてそれらは全て、最後の沈痛の静けさに覆い隠されてしまった。
姫は小さく、零れるような吐息をついて、そして日記を書き始めた。
いつか必ず消えてなくなる、楽しい記憶を。
それは朝に起こった出来事。
姫が朝食の片付けをしに隣の部屋にいる間に、
弥星と玖音が例のごとく茄月をからかったこと。
それに怒った茄月が手裏剣のごとくリビングのクッションを投げ散らかしたこと。
茄月の投げる力で、羽毛が入っているとは思えないほどに硬化したクッションを、
弥星、玖音、葉月、神無、庚の全員は幸運にも避けることができたが、不幸にも一つのクッションが破れ、中の羽が部屋中にばらまかれたこと。
一瞬虚をつかれた玖音に茄月が跳び蹴りを食らわせようとしたが、すんでのところで避けられ、なんとか羽毛を片付けようと身を屈ませた庚の頭を茄月が蹴って
しまったこと。
束の間意識が飛んで、大きな川が目の前に広がる夢を見たが、あとはたんこぶができただけで、大丈夫だと庚が微笑んだこと。
姫が戻ってくるまでに彼らが全ての羽毛を片付けたこと。
けれど自身のことを構う暇がなかったので、姫がリビングに入ってきたとき、全員がどこかしらに羽をつけて姫に笑顔を向けていたこと。
この日々の全てが終わる。
過去になり、思い出となる。
その時彼らは、姫を恨むだろうか。
最後に裏切られたと、思うだろうか。
姫は日記を閉じると、立ち上がった。
その時、姫は笑っていた。
残酷な美しさをたたえていた、天使のような微笑み。
時計を見る。
・・・さぁ、お茶の用意を始めよう。
そうして部屋を出ようとした姫の顔に、一瞬、激しい哀しみに身を縮こませた、
今にも泣き出してしまいそうな少女の面差しが鋭く差したのを
誰も知らず、そして姫その人すらも、気づくことはないのだ。
END