不自然な関係の上にある。
どちらか一方が「可笑しい」と口にしたら終わってしまう。

永遠の平行線。













神無はふと目を覚ました。
しばらくボンヤリとベットから見える窓の外を眺めて、のそのそと起き上がる。
それからまたしばらく考えるようにぼうっとしていた後、やがて寝着から普段着に着替えると、その宿を後にした。
夜の街。そこが今、神無達のいる場所だった。




窓から光の漏れ出る店からはどこも煩いくらいの音楽が鳴り響き、ざわざわと煩雑な人の笑い声がこの町を覆っている。
人々からは酒の匂いが色濃く、素面の者もあればおぼつか無い足取りの者もいる。
夜になれば一層込み合ってくる大通りを縫うように、神無は歩いていった。
もうこの雰囲気にも慣れた。
酒場が集まって一つの町のようになっているこのような場所に、初めて神無が来たときは随分と戸惑ったものだが。
・・・・・いや。
〈月影〉を飛び出してから見る世界はどこも驚きに満ちていた。
今まで神無は、外の世界は闇の中、血の海で満ちていると、信じていた。












神無は二件並んだ賑やかな酒屋の前で足を止め、頬をトントンと長い指の白い腹で叩いた後、右側の店へと入っていった。

「いらっしゃあぁいっ。」

ドアを開けたとたんに、笑い声や音楽、酒の匂いが一挙に覆いかぶさってきた。
大きく胸がはだけ、生白い太ももをさらけ出している女達の周りに、男たちが大ジョッキを片手に大声で談笑している姿があちこちに見受けられる。
入り口に入ってから一ミリも動かないで店を見渡した神無は、一目で奥にいるその人物を見つけた。
こちらに背中を見せるその男は、今日も元気よく三人の女をはべらかしている。
神無が近づきすぎる前に、彼は振り返った。
目にかかるくらいに伸びた前髪、少し冷たい印象を与える整った顔立ち。
けれど決して冷酷に見えないのは、彼が作り出す表情の柔らかさにあるのだと思う。
少々吊り目がちな目を、その男は笑うように細めた。

「よう、神無。」

スッと手を上げる。

「・・・お腹すいたわ。」
「第一声がそれかよ。・・・ふん。何か食えば? ここは酒場だ。」

玖音ちゃん、はーい、水割りできたわよ。
玖音の横に座っていた女がガラスのコップを持ってストローを差し出す。
玖音はあー、と口を開いて女にコップを持たしたまま、ごくごくと飲んだ。
きもい。っていうかストローで飲むな。

「きもいって、お前なぁ。」
「いや、きもいだろ。」
「サービスっ! ここのサービスだろっ!」

そんな玖音の言葉は右耳で聞いて左耳で流し、神無は女を見た。
83、54、88。
上から目測で図ってみればこんな感じだろう。多分大差はない。んん、いいカラダをしている。

「おいコラ、そこの変態。・・・で? 食わないのか?」
「財布を持ってきてない。」
「そうか、阿呆だったのか、お前。」
「ケンカは買う主義だよ。」
「いやすまん。許してくれ。」

プライドもへったくれもない玖音の態度に、神無にしては柔らかい笑みを作ってやった。
玖音は肩をすくめる。

「ま、とにかく、金がないなら俺の飯、ちょっとだけならやってもいいぞ。」
「ちょっとだけなんて、ケチだね。」
「あの~、神無さん、言いたくないけど、一応貴方は恵んでもらう方の人間だからね。」

玖音が手を広げた先に、テーブルを丸一つ覆いつくせるぐらいの食事が用意されていた。
分かりきったことだが、玖音一人きりで食べ切れる量じゃない。
そういしている間に女のうちの一人がナゲットを食べていた。
・・・・・やっぱり。

「ん? どうした。」
「そうだね、この席丸ごと譲るっていうんなら、話に乗ってやらないこともないね。」
「どこの女王様だよ、お前はよ。」
「あっそ。じゃあいいわ。」
「あ、おい、神無・・・・・。」

神無は踵を返して歩いていった。
冗談じゃなかった。あんな席に座って、玖音を取り囲む女の一人として見られることは耐えられない。
それこそ飢え死にした方がとっぽどマシだ。
玖音が何か言いかけてたが、「玖音ちゃん、こっちむぃてぇ~。」という甘ったるい声が聞こえてきたので、
神無が見なくても素敵スマイルで振り向く玖音の姿 が用意に目に浮かんだ。
吐き気がした。くたばってしまえばいいのに。

店の中は熱気に満ち満ちていたせいか、外に出ると空気は冷えていた。
なんてことはない。
神無が店へ出向いていったのは、別にお腹がすいていたわけではなく、酒が飲みたいわけでもない。
玖音がまだこの町にいるかどうか、確かめるためだった。
神無は顔を上げる。
店の明かりで昼のように明るいここいらのせいで、見上げた空はただ暗やみの世界を広げているだけだ。月も見えない。








知っている。と、神無は声にせずに言った。

玖音と神無の関係は、もうすぐにでも終わったはずの、拙い糸の上にあった。
確かに、玖音は神無の命を助けてくれたが、それでどうこうと言うわけではなく、
どちらかが「何故、一緒にいるんだ。」と口に出せば、自然と離れていく状況 にあった。
一緒にいる、理由などどこにもないからだ。
理由なんていらないと言ってしまえばそれだけかもしれないけれど。
だけど、本当に、何もないのだ。
私達の間に、何も、ない。
助けてもらっただけ。そして一応、些細な恩返しとして仕事の手伝いをしただけ。
時々、お互いにお互いを不思議そうな顔で見つめ合う。
どうしてコイツといるんだ?
玖音が「お前、いつまでここにいるわけ?」と言うか、神無が「じゃあね。さいなら。」と言えば、それで終わる。
だけど二人とも、その言葉を口にしなかった。まるで見て見ぬふりをするように、顔を背け合う。
そうは言っても、本当に一緒にいるかと聞かれれば、一日の大半は思い思いの時間を過ごして会わないときだってザラにある。


神無は息を吐き出した。


玖音という男は、甚だ妙な男だった。
戦闘面に関して言えば、神無よりはるかに劣る。それなのに、一瞬を鋭く切り裂く、あの見事な身のこなしはなんだろう。
人の命を瞬く間に切り落とす技、しかし、どうもその戦い方の根底にあるものは、“守り”に根ざしたそれだという のも気にかかる。

玖音は妙な男だった。

玖音の切れ長の瞳に時折ひらめく鋭利な刃はなんだろうと思った。
だからある日神無が尋ねると、ある男を殺すために旅をしているのだと玖音は言った。
やっぱりな、と神無は心のどこかで納得したのだ。
玖音には、そういった、特有の何か気だるい雰囲気が漂っている。
私は元の職業柄、そういった人物を数多く見てきた。だからやめておいた方がいい。あまり利口な生き方とはいえない。
前に神無がそう言うと、「お前には関係ない。」と一蹴されてしまった。
そりゃその通りだ。
だから神無はその後一切玖音に口出ししていない。
死にたいのなら、勝手に死ね。










玖音のような人間が、復讐を終えた後でどうなっていくのか。神無は大きく分けて、二種類あると思う。
一つは復讐を果たし、精神も肉体もボロボロになりながら、それでも新しく前へ一歩を進んでいく者。
それから、その肩に圧し掛かった重みに耐え切れなくて、また、耐 えるつもりもなくて沈んでいく者。
神無に言わせてみれば、玖音は明らかに後者だった。
けれど玖音は言った。
言うまでもなく、その横顔には死の影が色濃く映って見えた。

「俺はアイツを、殺してやる。」



















神無が来た道と同じようにすいすいと人の間をすり抜けていくと、ふと、少し先で手を振る男がいる。
ここではまぁまぁ珍しく、品の良いいでたちをした男である。
そんな成りをして、実はこの町には慣れしてしんでいるのだと、そのしぐさが物語っていた。
未だ足を止めない神無と目が合っていたまま視線をそらさない。そんな男に、神無は怪訝な顔をした。
まさかな、と思って後ろを振り返っても、後ろにそれらしき人はいない。
もう一度神無がその男を見ると、男は頷いて柔らかく微笑んだ。





















・・・・・・結果として玖音は、あの決意を果たすことはなかった。
父親を殺すことはしなかった。
何も直前になって、父親への情が首をもたげたというわけではないだろう。
必死に息子にすがり付いて命乞いをする男という肉塊を、玖音はただ見ていた。
人差し指を軽く引けばその脳天を貫ける状態で、ただただ淡々と、玖音は男を見ていた。
その目は皿になったように、何を映すでもなく、男の醜態を映すだけに留めている。
軽蔑か? いや、生き物を見ていない、ただ無生物を、部屋の隅のチリを前にしているような、無機質な感情だけがその瞳の奥で揺らいでいる。
神無は横で何も口にしなかったが、玖音を横顔を見ながら、止めてやろう、と思った。
もし次の瞬間、何かの間違いで玖音が引き金を弾きそうになったら、止めてやろう。殺させないでやろう。
その男のためじゃない。
玖音のために。
命を奪う価値もない男の血で、その手を汚させないために。

























神無はなんとなく太陽が昇る束の間の時刻に、再びフラフラと店に舞い戻った。
結構な時間が立ったというのに、飽きもせず女に囲まれている玖音にささやかな殺気が湧き上がってくる。
変わったことと言えば取り巻きの女が一人増えたことか。
あの様子はどうやらここでもう一夜明かすつもりらしい。
神無は今度は入り口近くのカウンターに座り、サワーを一つ頼んだ。
店員は心安く頷き、神無も愛想程度に笑うと、コツコツと机に指をたてた。

「へいお嬢さん、これからの酒は肌が荒れますよ。」

声が背後からかけられ、神無は目だけ上げた。その男は目元だけで笑むと、勝手に横の椅子に腰をかけた。
神無はコツコツとテーブルを指で叩く。

「あの人たち、放っておいていいのかい?」

玖音は喉の鳴らして軽く笑った。

「いいのいいの。昼からあの中にいたからさ~、マジで肩が凝ってるわけ。」
「あっそう。・・・じゃ、マッサージでもしてもらえばいいじゃない。職業柄、できるんじゃないの?」
「あ、それいいな~、だけどあの爪、肌に食い込みそうだよな。痛そうだよなぁ。」
「そうそう。ついでに後ろから刺されたりしてね。」

玖音が一瞬ぎょっとした。よほどリアルに想像できたらしい。
程なくしてニヤリと玖音は口の端で笑った。

「なんでそう思う?」
「アンタの女癖が悪いからだよ。」
「なるほどなぁ。参考になるぜ。モテる男は、本当、辛いよなぁ。」
「そうだね。一回死んでみれば現実が分かるんじゃないかい。安心しなよ。遺骨はどこかに遺棄してやるからさ。」
「そんなっ! 復讐してよ。っていうか、少なくとも遺体はちゃんとしたところに安置して!」

何が復讐だ。馬鹿馬鹿しい。そんな義理なぞ一ミリもない。
神無は綺麗に玖音を無視して視線を下に降ろした。

どうしてこの玖音という男は、こんなにも女遊びが好きなのか。
そう聞くと前に玖音は「血だな。」とのたまった。ふざけんな。血のせいにしてんじゃねぇ。てめぇの気質だよ。
だけどこんなところにいても、玖音の心が満たされているわけではないのは事実だ。
性質的に、玖音にこの雰囲気は合わないのではないかと思ったりもしたものだ。こういうことは、潔癖な方なのだと思っていた。
「だけど俺、男だからなぁ~」、とも言っていた。それを聞いたことで、これ以上詮索する気も失せたのだが。


「しかし、帰ってくんの、遅すぎだろ。」

ほらよ。そう言って、玖音が一皿テーブルに置いた。

「え。」

神無が目を丸くして玖音を見る。
しかし玖音は構わなかった。

「つってもなぁ、もう日が明けるし、そんなに食わない方がいいと思うけどな、俺は。だからあんま食うなよ。あぁ、それから、これがうまいんだ。」

玖音も食べる気なのか、神無を尻目にブスリとチキンにホークをつきたてた。
はぁ、と、思わず神無はため息をつくと、おでこに手を当てた。
ちょうどその時、「サワーです。」と言って、店員が神無に鮮やかな赤色をしたコップを差し出した。

「ん? なんだお前、どうした。」
「ありがとう。だけど、・・・悪かったねぇ、玖音。私、もう食べてきたんだよ。」
「ん? は、食べてきた? 何、飯を?」
「そう。」
「・・・なんで? 財布持ってなかったんだろ?」

あぁ、取ってきたのか。玖音は頷いた。それから程なくして、ん?と首をかしげる。

「財布持ってきて、そんで別のところで食べて、またここに食べに来たのか? どんな大飯食らいだよ。」
「違う。違うの。奢ってもらったんだよ。だから財布も持ってきてない。このサワーは奢ってよ、のどか湧いたんだ。」
「・・・いや、まぁ、奢るのはいいけど。・・・待て。奢ってもらった? 誰に。」
「男。」
「誰?」
「知らない男だよ。」

ややあって、あぁ、と理解したように玖音は頷き、テーブルの上に手を置いた。
ニヤニヤと笑っている。

「へ~。どこで食ったんだよ。」
「“赤い靴”。」
「おぉ、上の上じゃねぇか。良い酒揃えてやがる店だ。やったな。」
「そうだね。おいしかったわ。」

今二人がいる店は、いわば中の中あたりの店だった。
玖音は酒の良し悪しよりも、中流の店の雰囲気を好んでよくここでうろついている。
それにこっちの方が、情報が入手しやすいのだ。

「で、どんなヤツ? どんなヤツ?」

なんでコイツが嬉しそうなんだ、とうっとうしげに神無は見つめながらも、隠す必要もないので口を開く。

「金持ちみたい。でも悪どいこともしてそうだね。っ
ていうか、ここはそういったヤツのたまり場だけど、マシな方だったと思うね。君もあまり悪いことしちゃ 駄目だよって言われたわ。」
「結構うざいな、ソイツ。」
「そうだね、まぁアンタ並みぐらいだよ。」
「ふーん、そんじゃ、結構評価高いんだ?」

なんだそれ、このナルシスト。
神無は無視した。
そう。でも確かに、あの男の雰囲気は嫌いじゃなかった。
ほどよく柔和で、ほどよく悪どい。多分こういった世界でのし上がっていくには、最良の雰囲気を持っていると思えた。

「うーん・・・・じゃあ、明日も奢ってもらうかね・・・。」

サワーを指で弾く。キン、と涼しげな音と、玖音の「え。」という声が同時だった。

「・・・・何。明日も会うのか?」
「決めてない。けど、明日もよかったら奢るって言われた。」
「ふーん・・・それはちょっと怪しいな。」
「そぉ? そんなもんでしょ。」

サワーを飲んだついでに、神無は皿に手を伸ばした。
わざわざ玖音が持ってきてくれたのだ。食べないに越したことは無い。
玖音の言う通り、舌に転がしたそれはおいしかった。だけどできるなら、やっぱりお腹が減ったときに食べたい。

「それにどんなことがあっても、私は大丈夫だしね。」
「・・・あぁ。・・・で、行くのか。」
「だから、決めてないって言ってるでしょ。」

神無は頬杖を付いた。
トントンと、頬を叩く。

「どうしよっかな~。別にどっちでもいいんだがね。あ、そういえばなんか仕事あるかい? 新しいの。」
「・・・いや。ないな。俺達が狙うほどの大物の情報は・・・。」
「ん~、じゃあ、暇ってことだね。ふ~ん。どうしようかなぁ。」
「神無。」
「ん~、何。」
「・・・・神無。」
「だから、何って。」

玖音を振り返らずに神無はそう応えると、もう一度皿に伸ばす。一度食べれば、癖になる味だ。しかしその手を、玖音にやんわりと阻まれた。

「は? 何して・・・。」

そうしている間に、もう一方の玖音の手が、神無のうなじから後ろ髪を掬い上げた。
半拍して、神無は弾かれたように玖音を見た。その時にはすでに、切れ長の瞳がすぐ傍にある。
そのまま、軽く、まるで啄ばむように、神無の唇を玖音は自分のそれで奪った。
一瞬のことだ。
少し触れて、そして遠ざかる。

「神無。」

耳に滑らかに入ってくる、声が。

「・・・・行くなよ。」

さらさらと玖音の指から神無の髪が落ちていった。
きっと今、この瞬間、自分はかなり不機嫌な顔をしているだろう。
けれどその顔は、うっすらと紅をさしているに違いない。
・・・・何よそれ。そうしたら明日もアンタが奢ってくれるわけ?
そう神無が言うと、玖音は目元を笑わせた。
穏やかで、それでいて謎めいた笑みだった。
そして何も言わず、返事もせずに、ただ神無を見つめて、玖音は元いた場所に帰っていく。
ほんの半時酒場の全ての音が遠のき、玖音の背中だけが、まるで回りの風景から浮き上がって見えた。












私たちの関係は、平行しているのだと思う。
限りなく近くなって、そして少し、離れている。













ただ神無が分かったことは、この関係は少なくとも明日までは続いていくということ。
そしてこの細い糸の先が、明後日で切れているのか、それともまたこうしてこの先も拙く伸びていくのかは分からない。

だけどいつか、二人で共にいることが自然になったとき、この糸がホンモノとなる日が、来たりするのだろうか。








まるで残された音が弾けるように。
熱に浮かされた白い氷が、コップの中で小さく声を上げた。











END.