常夏の沖縄の海は太陽の光を跳ね返し、凶暴なくらいの威力で輝いていた。
ココヤシの葉が風にしなる。大きな蒼い空が自分を機軸として、西から東へ流れていくような気がした。
この辺りで一番高い木の枝に立って、辺りを見回したときに突然突き上げてきた涙。その涙の意味が、十波には分からなかった。
酷く懐かしく、それでいて胸が苦しい。
ただ明確に分かっていることは、自分に初めて屈辱的な気持ちを教え込んだ女、佐倉に、復讐してやるんだという気持ちだけだった。
それだけで十分だ。
何年経っても色あせないこの想い。
それさえ抱き続ければ、必ずこの歩む先が再び彼女の生きる道と交差するだろう。










十波が危なげなく木に登ることができ、そして木の上は「気持ちがいいんだ。」と言えるようになったのは沖縄にきてからだった。
東京にいるうちはどうあがいても無謀だったはずだ。

家は金持ちで、生まれたときから病弱だった。
ママとパパとじいとばあにドロドロに溺愛されて、お菓子もオモチャも好きなだけ与えられたが、友達はいなかった。
小学三年生で成人病も患った。それでも望めば何でも与えられる自分の境遇をかんがみて、世界で一番幸せな子供は自分だと信じていた。




そんな十波の子供時代を終わらせたのは、佐倉だった。世界の広さに気づくきっかけを与え、また、世界の残酷さに、初めて気づかせたのも。




佐倉の力は絶対的で、どうしたってそれに対抗できることはなかった。
佐倉の人とは思えない最低な仕打ちに耐えたのも、一重にその凶暴性に叶わないからだと自分で自分に言い聞かせていたからにすぎない。
そう自分を納得させ、そしていつかは見返してやると心に決めた。
そうして頭の中でしか反撃できない自分を、一種の絶望感にも似た気持ちで振り返る。
風来坊のように心を掻き乱しては我が物顔で吹きすぎていく佐倉。このままでは一生、この女を捕まえることはできないだろう。
だから俺は俺を鍛えた。
食事を制限し、勉学に励み、運動をし、ルックスを革命した。なんでもやった。なんでもやってやった。
ただただ、佐倉に復讐するためだ。佐倉に思い知らせてやるためだ。

佐倉のあの一言に、どれだけこの心が傷ついたか。
俺に関わってきたのは、ただ担任に頼まれただけだと。
ただ赤の他人に頼まれたからお前の傍にいただけだと悪びれなく言ったお前の言葉に、どれだけ俺が苦し んだか。
そして家を一歩でれば誰も相手にしてくれないこの容貌と歪んだ性格に気づかせたのは、佐倉、お前のその言葉だった。
本当の孤独を気づくきっかけを作ったのは、お前、ただ一人だけだった。
だから佐倉、今度はお前が俺に気づくべきだ。
俺という人間が、確かにここにいることを。
お前の言葉に、お前の存在によって変わった人間が、確かにここにいることを。
そうして佐倉が俺に気づいてくれたなら、その時俺は、永遠の孤独から解放される。そんな気がするんだ。













東京に二年ぶりに帰った。

そこで俺を向かえる人々の目は二年前と打って変わった。
体を鍛えることで、背は急激に伸びた。病気は治り、バスケではエースの座に立った。
この進学校でも成績は一位に躍り出て、今もし同じ中学だった者たちが俺を見たとしても、まさかあの十波とは思うまい。

それでいい。





転入してから数日は和やかに過ぎた。
けれど、急がない用事をダラダラ惰性で続けていたことで、未だ一番高い木を探していないことに十波は思い当たった。
そこで放課後、さっそく校舎を出歩いて、一番背が高いと思われる木の下に十波は立っていた。
昇ってみようか。
沖縄のように広々とした空は、きっとビル群に囲まれた東京では見られない。
けれど解放された気持ちにはなれるだろう。そして時折痛む胸の痛みも変わらないはずだ。
そう思った刹那、堅いものが頭めがけて落ちてきた。
思わず声を上げて落ちてきたものを睨む。かなり痛い。足元に転がったのは赤く熟れた林檎だった。
何故に林檎。これはどう見たって林檎の木なはずがない。

「やったね、命中ー。」

はるか上から声が聞こえてきた。
風来坊。この心をたやすく掻き乱す。

十波が見上げれば、ずっと高みにまで上った一人の女が十波を見下ろしていた。
背はスラリと伸びて身体は引き締まっている。その目はガキ大将のようにキラキラと悪意に光り、あろうことか短いスカートのくせに足をブラブラ動かしてい た。

「・・・・何やってんだ、お前。そんなところで。」
「別にー? あたしには間食が必要なんだよ。こういった間食は、高いところで食べるのが旨いんだ。」

そう言った佐倉は、コンビニの袋からバナナを取り出した。
ぶっと十波は噴出した。

「お前、ゴリラみたいなヤツだな。ゴーリーラ。」
「何ぃ? こんな所も昇れないようなへっぴり腰に、そんなこと言われたくないね。」
「俺が昇れないと思うか?」

佐倉が応えるよりも先に、十波が動いた。
枝に足をかけ、昇っていく。その一連の動きが、以前にも増して軽やかなのは何故だろう。
十波は佐倉のもとまで上り詰めた。
ふとすればその女の唇に容易く触れられるほど近くに。
佐倉は声をたてて愉快そうに笑った。

「そうか。お前、ここにいる気持ちよさを知ってるんだな。」

そう。世界の残酷さを教えたお前はまた、この高みに昇った後の心地よさを教えた。
その時の俺は、ここまで昇る知力も体力もなく、ただお前を見上げているだけだった。
だけど今は違う。



俺を見ろ、佐倉。そして俺を意識しろ。
そうしてお前がどうしても俺の存在に無視できなくなったとき、俺はお前を裏切ってやる。
俺が感じた同じ痛みを、お前も思い知ればいい。



そんな十波の心の内も知らない佐倉は、くっくっと屈託なく笑った。

「それにしてもお前、こっちに昇ってくるお前の方がゴリラみたいだったぞ。ほら、エサだ。やる。」
「いらねぇ。」

十波は断ったというのに、佐倉はひょいと袋から十波へ放り投げた。
仕方なく十波は受け取る。
またバナナ。なんだ。嫌味すぎる。



風が吹いた。佐倉は気持ち良さそうに目を閉じる。
この風は沖縄のように甘美な香はしない。それよりも閉鎖的で、十波は好きになれそうになかった。

しかしこの木に登れば、佐倉はいる。
沖縄ではいくら探してもいなかった、佐倉が。

十波の意思に反して、その身体は動いていた。
二年の月日を飛び越えて、この身体が欲していた。
届かないと思っていた、佐倉を。

十波と佐倉の唇が重なる。
地面から風が沸き起こり、二人の髪を乱していた。











END