「お兄ちゃん」と呼ぶ、その声が無くなったとき
俺は泣いた
哀しみが憎しみに押しつぶされて
見えていた道がなくなった
俺がまともでいられたのは
その笑顔が、あったから
茄月の右ストレートが玖音のみぞおちに見事に決まったとき、
さすがの茄月も「あちゃー」と呟いた。
あちゃーじゃねぇ! 死ぬ! マジで死ねるっ!!
「哀れ、玖音。敗れたり」
むしろ気持ちの良いぐらいにタイミングよく言葉を発したのは、茄月の兄である葉月であった。
っていうか、お前は、小難しい本を熱心に読んでたんじゃないのか、っていう話だ。
どうしてこうも良い時に良い感じで目撃してるのか。
カンカンカンカン、どこかからコングの音が聞こえる。文字通り玖音はソファーに沈んだ。
「なな、何よ玖音。立ち上がれ! ここで立ち上がらなければ男が廃る!
それに今のは、挨拶程度だろぉぉお!」
茄月が頭上で訳の分からないことを叫んでいるが、
一体どこの誰がこんなクソ恐ろしい挨拶を交わすというのか。
茄月国か。少なくとも玖音はあずかり知らない。
ふぅ、と葉月は涼しげにため息をついた。それから立ち上がる。
どうやら今手にした本は読み終えたから、新しいものをどこからか持ってこようとしているらしい。
・・・オイ。目の前の惨事は無視なのか。
葉月が出て行った後、茄月は玖音の襟首を掴むと、その巨体を引きずり起こした。
「ちょっと玖音、本気で大丈夫っ? 顔青いって!」
「夕飯が全部出る」
「汚い!」
茄月がボロ雑巾のように玖音をソファーに投げ捨てた。
それでも玖音の動きは鈍かった。
すごい。腹を殴られたはずなのに目の前がチカチカしている。
いつもと違ってウンともスンとも反応しない玖音に、今度は茄月の方が、蒼白になった。
「し、しっかりしてよっ、玖音ってばっ! ねぇ、玖音っ!」
無反応。
「・・・。・・・。・・・・・・・ほ、本当に、ごめんなさい。
だって、・・・だって、まさかあんなに綺麗に入るとか、思わなくって・・・」
うわ~ん、玖音っ!
茄月は玖音の二の腕に張り付いた。
・・・うわ、やべぇ、この状況。これは、茄月は泣いてるかもしれねぇ。
そうひらめいた玖音は次の瞬間、
ど根性でなんとか三途の川から生還を果たして起き上がってみせた。
腕を見下ろせば思ったとおり、茄月の顔は半泣きに限りなく近い。
「・・・大丈夫だって。確かにきつかったけど。泣くな」
「うぅ・・・、ごめん。ごめんねっ、玖音っ。・・・お願いだから、死なないでぇ」
「勝手に殺すな」
ゴシゴシと乱暴に、出かけた涙をぬぐってやる。
茄月はふぇ、と変な声を出した。
「ふぇ、って何だ。ふぇって。お~、お~、泣いてんのか。ブサイクになるぞ」
「ひ、ひどい!」
玖音がそうからかうと、茄月は意地でも涙なぞ引っ込める。
そして打って変わってプンプンと怒り出すのだ。
この感情をコロコロ変える少女に、玖音は笑った。
その間に、腹の痛みも、どこかに置いてきてしまったらしい。
茄月は恨めしそうな顔で玖音を見た。
「く、玖音だって、悪いんだからね! 私を最初にからかった!」
「そうだなぁ。そろそろ茄月も、男の軽口くらい平気な顔でかわせるようにならないとなぁ。
お兄さんは心配でお嫁にも行かせられないよ」
「誰が兄さんよ!」
茄月が突っ込んだ。
「だがよ茄月、同じ女でも、神無を見ろよ。
アイツは昔酒屋で、逆ハーレムを築いた女だぜ。あの技を、少しでも盗め」
「私が神無になったって、仕方ないでしょ!」
「よし! よくぞ言った。そうだ。神無は神無の良さがあり、お前はお前の良さがある。
お前の良さは、人の言葉に、真摯に、そして半ば盲目的に突っ込むことだ」
「それ、絶対けなしてるよね。・・・っていうか、最初に言ったことと矛盾してるし!」
茄月が不満そうに頬を膨らませた。
玖音がぐしゃぐしゃと、その頭を撫でてやる。
「だから、ま、そう気を落とすな。何を悩んでもいいが、お前はお前らしく、行け」
「・・・なにそれ。私、何も悩んでなんか、いませんけど」
茄月は口をへの字に曲げると、ツーン、とそっぽを向いた。
分かりやすいヤツだ、とまた玖音が笑う。
「ふ~ん、それならいいけど」
余裕そうに背もたれに腕をかける玖音を、茄月は上目遣いで見つめた。
「どうして」と、茄月は呟く。
「どうして玖音は、いっつも気がつくの?」
何を? という意地悪な返し方はやめておいた。
う~ん、と玖音は首を傾げる。
「多分、皆気づいてると思うぜ? お前、分っかりやすいし」
「・・・・・・・。」
何かものすごく腹が立つが、言い返すことはできなかった。
・・・仮にそれでも、だ。
玖音は、兄である葉月と同じくらいの早さで気がつく。
そうしてまた、葉月と同じように・・・・・・・時には、葉月よりも甘やかして、茄月の背中を押すのだ。
けれどそれを問いただすのは癪に感じたので、茄月は拗ねたように向こうを向いてしまった。
玖音は背もたれから腕を滑り落とすと、膝の上に頬杖をついた。
「・・・茄月の場合は分かりやすい上に危なっかしいからなぁ~。
だから必要以上に、気になるんだ。・・・ま、妹に接する態度みたいな感じだな」
「も~・・・・。また、妹?」
「そ、妹。死に別れた、妹のな」
その妹と、茄月は似ても似つかないかもしれない。
思う心の表し方は、正反対と言ってもいい。
それなのに、その、真っ直ぐな素直さが。
「死に別れた妹ぉ? も~、まぁた適当なこと言って。どうせ、嘘なんでしょ?」
茄月が無邪気な様子で振り返った。
玖音はとっさに、笑顔で取り繕うとした。
茄月の顔から、一瞬、表情が消えた。
ぎゅ、っと、玖音の服の袖を掴む指先、それが心なしか、震えた気がした。
「・・・嘘なんでしょ?」
茄月のすがるような、目が。
それとも・・・、と喘ぐように言葉をつぐむ。
「本当、なの・・・?」
ピシッと、玖音は茄月のおでこを指で弾いた。
「痛いっ!」と叫んで額を押さえた茄月が、涙目で玖音を睨んだ。
玖音はニヤリと口に笑みを作る。
「さっきのお返し~。間抜けな顔をして見せた、お前が悪い」
・・・も~、玖音っ! そう怒って言った茄月の声は、明らかに安堵していた。
それでいい。
今のは、玖音の口が滑っただけ。
茄月が知らずにいても良いことだし、茄月のあのような顔を、玖音も望んではいない。
二人でギャーギャー叫んでいる間に、葉月が帰って来た。
本を取りにいったのだと思いこんでいたが、シップを取りに行ってくれていたらしい。
後に必ず、青くなるだろうということだ。
元気に茄月と言い合っている玖音を、しげしげとながめて、
「どうせならもう少し、静かにしてもらえば本にも集中できたのにな」
と葉月が言ったことが唯一、頂けなかった。
しかし、葉月がこのような騒々しい中でも読書を続けていたのは仕方が無い。
気落ちした茄月が、いつでも相談しに来れるようにと思ってのことなのだろう。
何にうだうだ悩んでいたのかは知らないが、今の茄月を見る限り、吹っ切れたように思う。
玖音は葉月と目を見合わせ、笑った。
「お兄ちゃん」
その声が無くなったとき
俺は泣いた
もうまともではいられないと思ったし
二度と埋まらない穴ができたことを感じた
今もそれは同じで気持ちであって
無理に埋めなくてもいいと思う
けれど、彼らと過ごすうちに
“お兄ちゃん”
その声が二度と聞けなくとも
俺はこうして笑って、生きることができる
end.